フルフィルメント瞑想と出逢って、1年と6ヶ月になりました。
「出逢って」と表現したくなるのは、瞑想との出逢いに始まってからの期間、実に多様な、それでいて「一生涯大切にしたい出逢い」に溢れていたからであると想います。
浩樹先生。青山の教室。集い、共に学ぶ仲間。笑い。
静寂と空。本物食。心の琴線に触れる瞬間。癒やし。
愛に溢れる眼差し。ヒーリング。光。
お母様の幸子先生。優しい言葉。海。
ヨガ。エネルギー。仲間の先生。涙。
マザー・アース。畑。希望の家。歌。
描写しきれない程の出逢いと瞑想の実習・体験を通して、新しい自分にも出逢い続けてきた様な、そんな1年と6ヶ月であったと振り返ります。
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「新しい自分」-。まだ瞑想を始める前、意識的にも無意識的にも握りしめていたであろう言葉は、これ以外にも、「心を開く」「あるがまま」「自然体」等がありました。
瞑想の実習による癒しの過程を経てからの今は、その言葉たちが消え去った替わりに、それら一つひとつの言葉そのものを、実感を伴って生き始めている、ということに気がつきます。
「こうなるべき」より「こうありたい」が優勢になり、それが大抵、自分にとって楽で、幸いな場所に落ち着いているといった感覚でしょうか。つい今し方、書きながら気がつきましたことです。(往々にして、このように後になってから「そういえば」という形でその変化に気がつくもので、それらの連続であったように想います。)
長年に渡って「べき思考」が巣食ってきたことを想えば、この内面の変化は驚異的、革命的とも言えますが、それが文字通り革命的であったことと、世界とは内なるもの(ハート)の反映であるという真理を証明するかのように、内側の変化が外側の世界へと、静かに確実に作用し始めているこのタイミングにあって、これまでの歩みを体験談という形でまとめさせて頂く機会に恵まれたことに、大きな意味と巡り合わせ、感謝の念も感じながら、綴らせて頂くものであります。
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さて、フルフィルメント瞑想に興味を持ったのは、「ハートを開く」マントラを基本の土台として、ここからスタートする瞑想法であると知ったことがきっかけでした。
かねてよりバンドで音楽活動をしていて、「ハートを開く」ことは、良い音楽を創作すること、良い演奏するための必要条件であると感じていた中にあって、その一方では、ハートを開くということに、何かコンプレックスのようなものを抱えていたと思います。
いつも対人において構えてしまい、楽しいはずの時間を楽しめないこと、本当に言いたいことが言えないこと、会話の途中で発作的に言葉が出なくなることが度々起こること、それによる潜在的な恐怖。
「ハートを開く」ことができれば、きっと色々なことが楽しくなって、もっと自由に良い音楽を奏でたり、気持ちの良い表現がスラスラとできるのではないか。「ハートを開く」とは自分にとって、まさにすべてを叶える魔法のように映っていました。
そんな折、奈良県吉野郡天川村にある天河神社に初めて行った先で、フルフィルメント瞑想をされている女性と出逢います。旅先で、初対面の人と30分もしないうちに瞑想の話になることが、生涯に何度あるでしょうか。天川から帰っても、このときの会話と、ハートを開かせてくれたような暖かいご縁の感触が忘れられず、いよいよフルフィルメント瞑想を体験してみたい、という気持ちになりました。
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ハートマントラ伝授後の帰り際、ある不安が抑えきれなくなり、できる限りさり気なく先生に訊いたことを思い出します。「伝授は、成功しましたよね。」 伝授直後の瞑想が想像していたものとは違い、あまりに何も起こっていないように感じていました。
「失敗しているということは、まず100%ないことですよ。」という先生の言葉と、そのときの先生の揺るぎない雰囲気だけを頼りに、家での初めての瞑想で座りました。
すると身体の内側で、なにか暖かなものが広がっていることに気がつきます。以前、ヴィパッサナー瞑想という瞑想法を実践していましたが、それ故に、それまでの瞑想とは全く違う何かが起こっていることは明らかでした。
同時に、フルフィルメント瞑想は強力であるという噂(その通り、空の瞑想としての強さによって、瞑想を始めて間もない段階から大きな反応や変容を経験される方も居られます)から、あまりにも大きな体験や変化を期待していたことに気がつきます。
瞑想中に実際起こっていたこと、瞑想を終えた後の感覚というものは、確かながらも、非常に繊細なものであったのです。
そんな感想を告げたときの先生の微笑みと、「瞑想中に起こっていることは、そのような繊細・微細な領域のことなのですよ。」という言葉に救われ、また安堵して、それからは日常生活や瞑想中の体験において、どんなに些細な変化でも、それがどれほど取るに足らないことであっても、瞑想の実習による変化であると感じたものは、片っ端から携帯電話にメモを取るという習慣を始めました。
そんな「成長記録」または「瞑想日誌」とも呼べるメモを寄りどころ、モチベーションにして、瞑想の実習を続けます。
やがて、瞑想会で皆と瞑想するときの瞑想の強さに気がついてからは、瞑想会で心に響いた先生のお話、皆さんのシェアなども含めて、瞑想会のたびに帰りの電車の車中でメモに残すようになりました。
この習慣は、1年6ヶ月を経た今でも変わらずに続けていますが、メモを書き溜めていくと、次のようなことに気がついてきます。それは、本当の変化ほど微細なもので、またゆっくりとしたものであり、そのような変化に気づき、捉え、それを自分の言葉で表現しようと試みること、シェアすることは、まさに「ハートを開く」ことに寄与している、ということです。
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瞑想会とジャプーヒーリングによる解放と変容の度合いには、今なお新鮮に、毎度その凄さと価値を実感し続けていますが、この1年6ヶ月という短い間に、普通一般では考えられないような変化を遂げることができたのは、毎日2回の瞑想を一度も欠かさなかったことに加え、やはり、このような瞑想会に足繁く通い、参加し続けたことに尽きると想います。
青山の瞑想会の予約システムから返信のあったメールを検索・抽出することで、これまでの瞑想会に参加した回数の総計を取ることができますが、この1年6ヶ月の間に、通算でジャスト160回の瞑想会に参加していました。
このように、どの教室よりも圧倒的に多くの瞑想会を毎月開いて下さるという環境のもとで、その学びを継続しやすい形で提供し続けて頂いていること、またそのような先生の純粋な想いに触れながら学びを進めてゆけることは、今後も一つの「幸せ」として振り返り続けることと想います。
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この瞑想会の価値と魅力について改めて挙げてみますと、先に綴りましたように、空の濃く練られた波動の良い教室で多くの人と瞑想を共にすることで、非常に強く各々のプロセスを進める瞑想ができるということ、日常や瞑想体験のシェアの中、自分の感じている繊細なことや言葉にはなりづらいものを敢えて言葉にして表現し合うことで、より一層ハートが開かれていくこと、先生のお話や皆のシェアから沢山の刺激や、瞑想を継続し、世界を広げていくためのインスピレーションをもらえること、瞑想会後のジャプーヒーリングによって、膨大なスピリチュアルなエネルギーの流入とともに、解放する準備ができているものから意識の変容と拡大を伴って強力に解放できること、その途上で、どこか同じような道を志す仲間との出逢いが広がっていくこと、又その仲間の、確実に変わっていく様子をリアルに見感じていくことができること。
このように挙げればキリがありませんが、そのような数え切れないほどの魅力に満ちた瞑想会に通い続けることで、やはりこれまで、数え切れないほどのウロコが目から落ちていきました。ここでは、その最も大きなウロコに絞って、以下にまとめてみたいと思います。
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1年と6ヶ月の間で何に目が開かれ、何が起こっていたか。その大きな割合を占めていたのが、「癒やし」でした。
それまでの自分の中での通説は、「変わりたい」「変えたい」と望むのであれば、「行動」こそがそれを可能にするというもので、確かにそのような面もあるでしょうが、その奥には、もっと深遠な真理が横たわっていることに気づかされていきます。
変容のためには、まず何よりも「癒し」が必要であること-。喜びからの世界を創造し広げていくためには、癒しは欠かすことのできないプロセスであるというのです。
「自分の中の傷ついた子どもを癒す必要がある。」このことを先生から告げられたとき、その意味と大切さが、初めはほとんど分かっていなかったと思います。
内側が緩み紐解かれ、癒しが進んでいくと、自分や世界を観る解釈・認識の歪みが落ち、それまでの痛みゆえの選択ではなく、どこか開かれた場所からの、愛ゆえの選択が可能なものとなってゆき、その結果として、自然に自身と世界が、自他にとって幸いなものに「変わる」ということ。
このような過程を経ながら、瞑想やヒーリングを通して、主に内面の「癒し」と「変容」を実感・体感していきます。
そして幸いな「創造」とは、そのような癒し開かれた存在感覚に在るが故に起こる、常に宇宙からささやき続けられているものへの気づき、又はそれによって目の前にもたらされるものに、今持ち得る愛でもって、素直に、全身全霊で事にあたるということであり、それこそが、「今を生きる」「真の行動」であること。
先生から様々に頂くアドバイスやお話によって、現段階ではこのような理解に至っていますが、「癒し」と「変容」に伴って、内側の変化が外側に及ぶというこの深遠な真理と自然摂理に、これから先の歩みの中でも、より一層心が開かれてゆくことと想います。
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内面が癒され解かれていく中にあって、最も革命的と呼べる観念の変化は、将来の仕事として「一つのことではなく、色々なことをやっていい」という認識に心が開かれてきたことでした。
そんな認識の変化に呼応するかのように、まさにそのような生き方を実践される新しい瞑想教師の方々による瞑想会、幸いな共同創造に参加が叶ったことは、とても有難い、大切な歩みの1ページになっています。
音楽以外のことにも目が向き始め、俄然将来が楽しみになったのも、丁度この頃からでした。癒しが進んできたことで、等身大を受容できるようになり、「自分以外のものになりたい」という衝動や必要性が薄らいできたことも在ったと想います。
このように「癒し」の過程の中では、様々なことに目が開かれていくことになりますが、内側の世界と外側の世界にまつわる認識の変化についても、やはり記述しておかなければなりません。
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瞑想を始める前まで、内面のゴールとは、即ち平安や静穏であったり、「あるがままでOK」といった状態のことであり、そのような境地が悟りであるという漠然としたイメージを持っていました。
また外側(実生活)におけるゴールとは、夢が叶うことであったり、好きなことをして生活を送ることができるといったような認識であったと想います。
先生の佇まいから受けるインスピレーションやお話を通して、次のように、この認識が変化していきました。
「あるがままでOK」という存在状態(宇宙意識)は元々、我々の居た次元であり、それはそれで価値のある存在状態ではあるものの、実はこの段階というのは早く過ぎ去ったほうが良い過程で、その開かれた存在の場所から、あらゆる存在の中に「神」または「自分自身」を見感じて(神意識)、それ故なる愛の場所から行為していくことこそ肝要であること。
それまで思い込んでいた内側の世界におけるゴールとは、実は出発点であり、そこから開いていく世界、広がっていく創造があったのです。
このようにして、内側の世界における変容ゆえに溢れるものを、幸いな創造として外側の世界にもたらしてゆくという過程に心が開かれていくことになります。
そして、瞑想における「境地」とは、実のところ瞑想そのものによってではなく、このように瞑想を通して開いてくる全容的な場所から息吹くものを広げ、ハートそのものを生きるとき、その全身全霊のコミットによって深まっていくものであるということです。
瞑想だけしていれば完全な幸せに至るということはなく、また、実生活にだけ傾倒していても存分に満たされることはない。このことを、先生は大聖マハリシによる「内側の世界100%、外側の世界100%。どちらもフルに生き切ることが大切である。」という御言葉を引用して、度々お話して下さります。
仏教の高名な修行僧も、やはり同じように「修行とは実生活に生かしてこそ意味のあるものである」と口を揃えていることも、まさにこのことに符合するものであると想いますが、この内側の世界と外側の世界を存分に生き切るという人生創造の姿勢は、「なぜ瞑想をするのか」「瞑想は如何に有用か」といった問いの答えに直結するものであり、またそのような生き方を実際に可能にする瞑想であるという確信が、これからも深まっていく予感に在ります。
そして今、このプロセスをリアルに実感するような、内側の世界の変化が外側の世界にまで溢れ及ぼうとする段階を迎えてきました。
瞑想と大変に相性良く、高次の次元よりもたらされたとされる本物「酵素」との出逢い、またそれに伴って教室全体としても創造の輪が広がっていこうかという時期・ボルテージと歩みを共にし始めている流れを想うとき、先生が度々お話して下さる「世界は全体として動いている」という摂理に改めて心開かれながら、「ダルマ」という宇宙法則に想いを馳せるようなこの頃であります。
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そのような今に在って、現在開催される全ての瞑想会に休まず通い続けていることは、また偶然ではないことを感じ始めています。
同時に、頻繁な学びを継続することで、それ相応に全容的なものに開かれていく感覚や、単なる無思考とは次元の異なる静寂、背後にある揺るぎないものと共に在るような感触が、非常に濃く在るような実感として表れてきているようです。
その中で直近では、これまで長く勤務してきた仕事を辞め、新しく息吹いてきた創造にエネルギーを向けるべく舵をきりました。
この選択は、ある出来事から始まった流れへの信頼にも寄るものです。
その出来事とは、金銭的に参加が絶対無理であると思われていた宿泊瞑想リトリートを前に、先生からのアドバイスによって認識が変化した次の日からお金が入り始め、リトリートの開始直前でそのフル参加が叶ったことと、その一連の出来事が、これから自分が表現し創造していきたいと願っていたハートに関わるようなことであったという、深くからのメッセージを伴ったような体験でした。
そして、これは瞑想会での皆さんのシェアを通して確信に至ってきたことですが、繊細な領域や目に見えない世界を捉え感じることができる人、または人生創造をより高いステージで展開されている人ほど、体が開かれていると言いますか、瞑想に加えて肉体へのアプローチ(ヨガ・マッサージ・運動)を愛し、または習慣にされているという共通点があることを常々感じていました。
これに見習い自分も、これから新しい創造のステージを迎えるにあたって、今一度、タイリシ・ヨガを習慣化していきたいという想いで居ます。
また、先生のお母様で、ヒーラーであり瞑想教師で在られる幸子先生より毎月御教授頂く「ヒーラー養成講座」にて、実際にエネルギーと現実を動かすテクニックの学びと共に今在れていることは、大変に幸運なことであり、この学びも益々深めていきたい所存です。
このような温度を保ったまま、この春に開催予定の宿泊瞑想リトリートで一つの沸点を迎えたい想いですが、ただでさえ相当な変化・変容をもたらす宿泊瞑想リトリートにあって、ここに件の本物「酵素」が本格的にリトリートメニューに加えられることは、それがどのような浄化と変容をもたらすかという想像を超えることとなりそうで、そのような予感に深くから心煌めかせて居られる先生と共に、静かに共鳴しているような仲間と教室全体の空気を、今とても幸いな春の兆し、春の足音として感じています。
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10年分とも20年分とも思える変化を瞑想を通して経験してきたことを振り返るほどに、1年と6ヶ月しか経っていないことがとても信じられないという想いで綴って参りましたが、これまで様々に変化してきた中にあって、ただ一つだけ、変わっていないことがありました。
それは、「最高に素敵な人や、本物と出逢うことができる」という信念、唯一胸を張ってできる自慢です。
教室で浩樹先生にお逢いするたびに、仲間の生徒の顔を見るたびに、幸子先生の柔らかな波動に触れるたびに、男料理を頬張るたびに、酵素を口にするたびに、何度、この信念と自慢が膨らみ、成長していったことでしょうか。
そしてひょっとすると、今度は自分が、そんな素敵な人や本物と言われている人間に、有難くも仲間入りをする入り口にまで差し掛かってきたのかもしれません。
このような想いに至ったことを、又これまで綴ってきました変容を可能にして頂いた、いつも明晰・クリアで且つ深く全容的な場所から、愛溢れる助言を下さる浩樹先生と、そんな素敵な先生のバイブレーションゆえに青山に集う素敵な仲間お一人お一人に、この場をお借りして、心からの感謝を贈りたいと想います。
この体験談が、瞑想に興味を持ち始めている方にあっては、一つその背中を押すものとして、また瞑想実習者の方にあっては、日々の瞑想実習・継続の為の、一つのインスピレーションとなり得ましたら、この上ない喜びです。
フルフィルメント瞑想という本物の瞑想とその伝統の系譜、そしてこの瞑想によって紡がれてきた、これまでの出逢いと、これからの出逢い、生きとし生けるものへの感謝の念を新たにして、体験談の結びとさせて頂きます。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
浅子 雄一郎